第11章 芸術
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人間が芸術作品を作り始めてから久しい
芸術は進化論者に難題を突きつける
進化心理学者のジェフリー・ミラーは『恋人選びの心 性淘汰と人間性の進化』で期待が持てそうな答えを示している ミラーによれば生態的選択が無駄を嫌う一方で、性選択はしばしばそれを好む 時間やエネルギーなどの資源を無駄にすることのできる相手のほうが交配相手として好ましいという考え方
その無駄が表している生存の余力に勝ちがある
コラム13 芸術とは何か
重要な問いではあるが、定義についての激しい議論は避けたい
本書の目的は単純に「人々がなぜ芸術を作り、楽しむのか」を述べること
それでも検討していく一連の行動の反については説明が必要だろう
美術
壁画、油絵、石の彫刻、グラフィックデザインなど
舞台芸術
音楽、ダンス、演劇、映画、コメディなど
言語芸術
詩や文学作品など
ボディアート
ファッション、タトゥー、ピアス、化粧、宝飾品など
家の中の芸術
インテリア・デザイン、ガーデニング、料理、装飾品など
たとえば土器はきわめて機能的であるため「芸術」ではない
けれども色が塗られていたり、模様が刻まれていたり、目を引く形であったり、それ以外にも機能的ではない要素で飾られていれば、ここではそれを「芸術」とみなすことによる
コラム14 適応か、それとも進化の副産物か
人間の読むという能力は,自然選択がその発達にいっさい関与していないので、適応ではない
進化心理学者の多くは芸術を適応と考えている
芸術は人間の生物としての適応度に貢献する役割があるため、芸術は、性選択を含む自然選択によって進化したか、もしくは維持されているか、あるいはその両方だということになる
「ここでは生物学的な意味で機能という言葉を用いている。簡単に言うなら、ある特定の機能とは、ある集団内で進化し、維持されてきたことで、因果関係を説明することのできるその特性の効果である。その効果があるために、その特性はそれを持つ生物の適応度に貢献してきたのだ。」(Mercier & Seperber, 2011) 誰もが同じ意見ではない
しかしながら、ほとんどの進化論者は芸術を作って楽しむわたしたちの傾向をどうやら適応だと考えている
芸術を適応とみなす主張について簡単に述べておこう
まず芸術は人間に普遍的である
芸術はコストがかかる
芸術を作るためには多くの時間とエネルギーが必要である
Miller「Ernst Grosseは1897年の著書THe beginings of Artで、芸術の無駄について、それが無駄なら、自然選択は『それほどまで目的もなく力を無駄に使う人間をとうの昔に淘汰して、実用的な才能を持つ人間を選んでいたことだろう。そして芸術がこれほど高度かつ豊かに発展することはなかっただろう』意見を述べている」(Miller, 2000) 自然は生存または性において何らかの強みがないかぎり、積極的にコストのかかる行動を排除する
だからといって、芸術に特化した遺伝子があるとはかぎらないということを知っておいてもらいたい
芸術の起源はほかの適応の産物だった可能性もある
けれども、行動がどのように生まれたかということは、それが高コストにもかかわらず多くの世代を超えて引き継がれてきたという事実ほど重要ではない
それこそが、芸術が適応であることを示す理由
ニワシドリのたとえ話
この島は特徴はその名の通り「東屋」、つまり雄が雌を引き寄せるために手の込んだ構造物を建てること
建てられる東屋の形やサイズは種によって異なる
最も印象的なものは、体長25センチメートルほどのチャイロニワシドリが建てる巨大な母屋だろう 高さが2.7メートルに達することもあり、入り口は(ミラーによれば)ドキュメンタリーで知られている身長180cm弱の「デイヴィッド・アッテンボローがもぐって入れるほど」の広さがある(Miller, 2000) その建造物を初めてみた動物学者は、それが小型の鳥の作ったものとは夢に思わず、子どもの遊び用に地元の人が作ったものと思い込んでいた(Rowland, 2008) 雄のニワシドリはさらに、自分の東屋を飾り立てるという驚くべき次のステップに進む
ここまでくると人間の芸術との共通点がひときわ顕著になる
ある種は、東屋の壁をクチバシから吐き戻した青い「塗料」で塗る
別の種は、マルコ石、カタツムリの殻、花びら、きらきら光る甲虫など、目地らしくて見た目もきれいなたくさんの装飾品を集め、何時間もかけて東屋のあちらこちらに注意深く配置する
アオアズマヤドリは、羽、ベリー、花、あるいはビンの蓋やボールペンといった人工物までをも含む、青色のものを好む こうした東屋はたったひとつの目的しか果たさない
雄が作って雌を引き寄せる
決定的なのは、雌が卵を産んでひなを育てるために東屋が利用されないこと
雄と交尾したあと、雌は別の場所に飛んでいって、木の上にもっと小さなお椀型の巣を作り、雄の手をまったく借りずに自分だけで子育てをする
つまり、雌の視点から見れば、雄のニワシドリは遺伝子の半分を提供する存在にすぎない
実際には、雄のニワシドリはたんなる安い精子を提供しているのではない
きわめて重大なことに、戦闘という試練に耐えた精子を提供している
空いている時間のほとんどを費やして、材料を探して森を飛び回り、それを入念に配置しなければならない
装飾が色あせてきたら、新しいものを集めなくてはならない
建造物を破壊しようとしたり、見事な飾りを盗もうとしたりするライバルの雄の攻撃から、自分の東屋を守らなければならない(Miller, 2000) 「繁殖期になると、雄はほとんど毎日、ほぼ一日中、自分の東屋を守り、維持するために尽くしている」とミラーは記している
その努力の報酬は交尾の機会が増えること
この行動を雄と雌それぞれの視点から検討するとよくわかる
自然界では極端に珍しい青い装飾品に収集の労力を集中させることで、アオアズマヤドリの雄は、他の色の装飾品を用いる場合より確実に、自分の適応力の高さを証明できる
雌のニワシドリは、雄の求愛者のディスプレイ、つまり東屋の展示を評価する眼識の重要性を示している 雄のニワシドリもまた、自分が作るため、そしてライバルのどの東屋を破壊したほうがよいかを知るために、見栄えのする東屋に対する眼識が必要だ。そして雌と同じように、雄もまたほかの雄の東屋を尋ねて眼識を鍛える。実際、成鳥になるまでは雄のニワシドリは雌とほとんど見分けがつかないので、しばしば求婚者を装って未来のライバルの東屋を視察する
どれが一番見事なディスプレイかを見て回ってようやく、雌は一番健康な雄と確実に交尾することができる
人間の芸術
ニワシドリと人間の芸術の決定的な違いは、私たちの種では、男性だけが独占して芸術を生むのではなく、また女性だけが独占してそれを楽しむのでもないこと
したがって、芸術を求愛に使う場合には双方向
男性が芸術で女性を魅了し、女性が芸術で男性を魅了するのだ
しかしながら、「人類の歴史を通して、公に展示されているほぼすべての芸術を生んできたのは性的に成熟した男性である」というMillerの観察も参考にされたい(Miller, 2000) 人間のように、たとえ雄でも子孫にたくさんの投資をし、ひいては相手を選ぶ必要のある種では、その方が理にかなっている
けれども最大の違いは、人間の芸術は、潜在的な交配相手として芸術家の価値を宣伝する単なる「求愛ディスプレイ」ではないこと 芸術家の健康、精力、活力、協調性、全体的な適応力と言った汎用「適応度ディスプレイ」としても機能している 適応度ディスプレイはもちろん交配相手を口説くために使えるが、同盟の相手を引き寄せる、ライバルを脅かすなどの他の役目も果たすことができる(Miller, 2009) そして人間はそれらすべてに芸術を利用している
要するに芸術は印象づけディスプレイであり、人間には他者を印象づけたい様々な理由があるということ
その他の適応度ディスプレイ機能には、家族に支援を頼む、捕食者や寄生虫を防ぐ、ライバル集団を威嚇するなどがある
ここで重要なのは、人間の芸術家がこの動機を意識する必要はないということ
Miller「燃えるように熱いという感覚は、『ところでこの脊髄反応は、一生残る組織の損傷を生じさせて生存の見通しを危うくする局所的熱源から、手足を引っ込めるスピードを最速にするよう進化したものである』という知的メッセージを運んでいるのではない。たんに痛くて、手が炎から離れるのである」(Miller, 2000) 重要なのは、芸術が適応度ディスプレイとして機能するという事実
芸術は芸術家と消費者の双方にとって有益かつ不可欠な目的の役に立つ
長い哲学の文献は言うまでもなく、芸術とはなんであり、また何であるべきかについての社会通念はいろいろ
ある説では、それはおもに美しさを描き、喜びを誘うもの
別の説では、自己表現や聴衆のコミュニケーションであり、アイデア、感情、体験を直接触れることのできない消費者に伝えること
あるいは芸術とは、挑み、限界を超え、政治的変化に影響を与えようとするものであるべきだと唱える説もある
こうした機能は互いに相容れないものではないし、適応度ディスプレイ理論と矛盾するものでもない
本章ではたんに「見せびらかし」が芸術を生む重要な動機の一つであり、芸術的本能の多くの細かい部分がその動機に大きく形作られていると述べているだけ
芸術家が見せびらかしたいだけでなく、消費者も同時に芸術家を評価する手段として芸術を利用している
それが芸術を評価する大きな理由のひとつであり、芸術を適応度ディスプレイと考えないかぎり、その現象を完全に理解することはできない
芸術にどれほどの労力が注ぎ込まれ、どれほどの注目が払われているかを考えれば、芸術家と消費者が芸術を作り、楽しむにあたって、どのような具体的な利点を得ているかを説明する必要があるだろう
何より芸術は動物の行動であり、生存と生殖の強化という意味でどれほど採算が合うのかを説明するためには、適応度ディスプレイ理論のような何かが必要だ
芸術作品の「内発的特質」と「外発的特質」の重要な違い
「内発的特質」とは芸術作品の内部にある性質で、消費者が芸術作品を体験するときに直接知覚できるもの
知覚の特質と考えてもよい
たとえば、絵画の内発的、つまり知覚の特質には色、材質、筆使いなどキャンバス上の目に見えるものすべてが含まれる
絵画の額縁、それを照らしている照明、展示されている壁さえも含まれるかもしれない。それらはみな絵画を鑑賞するという体験の一部だからだ。
「外発的特質」は、芸術作品の外部にあるもので、消費者は芸術そのものから直接知覚できない
この特質には、芸術家がだれか、どのような技巧が用いられたのか、どれほど時間がかかったのか、どれほど「オリジナル」か、素材がどれくらい高価であるかなどが含まれる
たとえば、絵画を鑑賞するとき、消費者は画家が写真を複製して描いたものかどうかを気にすることがある
これは絵画を見るという知覚体験に影響を与えないという点で外発的特質
従来の芸術の観点と適応度ディスプレイ理論の最も重要な違い
その違いは、従来の観点が芸術の価値のほとんどを内発的特質と、その特質の知覚と鑑賞がもたらす体験に見出しているところにある
たとえば美しさは一般的に、芸術作品そのものに呼び起こされる体験だと考えられている
従来の観点に立てば、芸術家が技巧と表現力を用いて作品を完成させ、それを消費者が知覚して楽しむ
その一方で、外発的特質は単なる添え物かあとからの付け足しであり、取引に不可欠な情報ではない
それに比べて、適応度ディスプレイ理論では、外発的特質がとくに必須
適応度ディスプレイとしての芸術は芸術家について述べるものであり、その人の技量の証明
その場合、印象深い芸術、つまり芸術家と消費者双方にとって成功しているものと、まったく失敗に終わるものとの差は、外発的特質によって決定づけられることが多い
作品が物理的には美しいけれども、写真から複製した絵画のように容易に作れるものであった場合、製作にさらなる技術が求められる似たような作品よりもはるかに価値を低く評価されがち
ある研究を例にあげると、消費者は同じ作品がひとりの芸術家ではなく複数の芸術家の手によるものだと告げられると、その作品を低く評価する
外発的特質の重要性は仮想の「レプリカ博物館」を思い浮かべればよくわかる
レプリカが十分に正確なら、オリジナルと見分けがつかないだろう
芸術家やその卵たちはオリジナルに関心があるかもしれないが、従来の観点から見れば、それ以外の人々はレプリカの博物館でも十分満足できるはず
レプリカはオリジナルに比べてやすいため、少ない金額で多くの作品を見ることができ、自分お待ちで見られるので便利だろう
当然のことながら、レプリカ博物館など存在しないし、その発想は若干ばかばかしく思われる
けれどもレプリカを見下すその態度こそが、芸術はしばしば感覚や知性の体験を引き起こす以外の目的で利用されていると強く示唆している
モナ・リザについて考えてみよう
地球上のどの絵画よりも『モナ・リザ』を実際にルーブル美術館の防弾ガラスの向こう側に見た訪問客は多い
外発的特性の重要性
芸術家の努力とスキルを見定めるための物体の内的特質以外の部分を見る方法は、わたしたちの芸術体験にはびこっている
「芸術」作品として扱われるものすべてについて、作品から与えられる知覚体験以上のものに関心が払われている
特に作品が作られた方法とその方法からわかる芸術家の技巧に関して
芸術作品のオリジナリティに対するこだわり
わたしたちは独創性を重んじ、あまりに模倣性の強いものは、それがどれほど自分の感覚や知性に合うものであってもはねつける
ここでもまた、わたしたちは自分が芸術家を評価するために芸術を利用していることに気づいていない
芸術が知覚体験であるなら芸術家がほかの人の作品を複製したところで問題はないはずだが、芸術家の技能、努力、創造性を評価するのであれば、そこには天と地ほどの差がある
ミラー「わたしたちが魅力的だと感じるものは健康、精力、忍耐、手と目の協調、細かい運動制御、知性、創造性、珍しい素材の入手手段、難しい技能を学ぶ能力、そしてたくさんの自由な時間といった、魅力的で適応度の高い特性を持つ人々にしか作れないものごとだ」(Miller, 2000) 芸術家はこの動機づけに対してしばしば、完成作品の内発的な特質は高めないけれども、より難しいあるいは多大な労力を要するテクニックを用いて応える
ミラー「進化論的な観点から見れば、芸術が直面している基本的な課題は、適応度の低い競争相手には作れないようなものを作り上げて自分の適応度を証明し、社会的そして性的に自分に魅力があることをはっきりと示すことである」(Miller, 2000) 芸術家は日頃から、適応度ディスプレイとして「印象深い」ものを作るために、表現力と製作の正確さを犠牲にしている
この犠牲が目に付く場所の一つが舞台芸術
ほぼすべての技術的な側面で、映画は劇場に勝っている
映画監督は照明、セットのデザイン、カメラアングルについて際限なく注文をつけることができる
たいていは完成度の高い作品が出来上がる
それでも消費者は依然として生の演劇を尊び、後列の席にさえ映画のチケットの何倍もの金を払う
ひとつにはライブのパフォーマンスはハンディキャップだからだ
失敗の許容範囲があまりに狭いため、結果として強く印象づけられる
同様のトレードオフは、たとえば口パクなど許されないミュージシャンやスタンドアップコメディアン、また即興喜劇やお笑い寸劇の一座にもあてはまる
芸術の形に制限を設けることで人の心に訴える方法
韻律と脚韻の仕組みを厳密に守る詩人は、うまく噛み合わない言葉を使えない
大理石の彫刻家は、失敗をパテやボンドで貼り付けることはできない
そして消費者はそれを高く評価する
人々が芸術を楽しむのは、芸術家が自分自身に制限を課しているからではなく、そうした制限によって彼らの才能が輝くからである
外発的な要因が変化するとき
芸術が適応度ディスプレイに用いられていることは「自然実験」の観察からもわかる
つまり外発的要因に変化が起きて、それ以外の要因はほぼ同じであるときの歴史事象をみればよい
内発的な要因が同じなら、たとえ外発的要因が変化しても好みは変わらないはずだ
実際にはわたしたちの体験は劇的に変化する
ロブスター
1800年代の途中までロブスターは実質的に低級な食物で、貧しい人や施設の人しか食べていなかった。初期のアメリカの厳しい刑罰においてさえ、植民地によっては、ロブスターは週に一度までしか収容者に与えてはいけないという法律があった。なぜなら、それは人にネズミを食べさせるのと同じくらい残酷で異常なことだと考えられていたからである。ロブスターの地位がそれほどまで低かった理由のひとつは、昔のニューイングランドにはそれがあり余るほど豊富にあったことだ。「信じられないほど大量に」と、ある資料に当時の状況が記されている。(Wallace, 2004) 今日ではロブスターは豊富から程遠く、格段に高価で「キャビアに次ぐ、あるいはその次くらい」の珍味とみなされている
同様に、ヨーロッパでは、肌の色の美的感覚に変化が起きた
ほとんどの人が屋外で働いていた時代には、日焼けした肌は地位の低い労働者の象徴だった
白い肌はそれとは逆に富の象徴としてもてはやされた
その後、多くの仕事が工場や事務所に映ると、色白の肌はどこにでもある一般大衆のものになり、裕福な人だけが寝転んで太陽をたっぷりと浴びることができるようになった(Lewis, 2002) ロブスターと日焼けは厳密には「芸術」ではないが、それでも美として体験するもの
そしてこれらは、わたしたちの好みが外発的要因の変化に応じて大きく変わることを示している
かつて安くて容易だったものごとが、貴重で難しいもの、つまり価値の高いものに変化したのである
ただし一般には、外発的要因の変化はものごとを難しくするというよりむしろ容易にする場合が多い
産業革命以前、ほとんどの品物が手で作られていた時代、消費者は明らかに芸術作品の技術的な完璧さを高く評価していた 写実主義は楽しむことのできる珍しい感覚体験(内発的特質)と芸術家の技巧の証明(外発的特質)という二つ者を与えた
この二つの目的に対立はなかった
多種多様な芸術の形、なかでも手工芸品はまさにこれにあてはまった
対称性、滑らかな線や表面、幾何学模様の完璧な繰り返し
その後、18世紀半ばに始まった産業革命によって、一連の新たな製造技術が導入された
それまでの労力とスキルの両方を集約して手で作ることしかできなかったものが、機械の力で作れるようになった
そのため芸術家と職人はそれまでとは比べ物にならないほど、製作方法を自由に選べるようになった
内発的な完成度はそれだけでは評価されなくなった
たとえば花瓶は、かつてないほど滑らかで対称的に作れるようになったけれども、今度はその完璧な形が安い大量生産品の証になってしまった
そこで、ハンドメイドの品を買うお金のある消費者は不完全であるからこそハンドメイドを選ぶようになった
食器としてはどちらも同じように使うことができる
それにもかかわらず、消費者は格段にアルミより銀のスプーンを高く評価する
多くの消費者はアルミより銀の方が美しいからだと答えるだろう
けれども近代的な製造過程や金属ごとの希少性について一切知らない狩猟採集民にスプーンを見せると考える
どちらのスプーンもピカピカに磨かれていて、狩猟採集民の目を引き、楽しませるに違いない
若干のきめや色合いの違いはたいした問題ではないだろう
もしかすると銀のスプーンのほうが重いけれども、狩猟採集民が軽い法を好む可能性も同じくらいある
おそらくもっとも目立つ違いは、アルミのスプーンが表面に傷一つないような厳格な基準に基づいて作られているのに対して、銀のスプーンは銀職人の槌のわずかな傷が入っていることだろう
狩猟採集民の体験に「欠けている」ものはスプーンそのもの、つまり物理的な品物にはまったく見当たらない
現代の消費者にとって価値のある重要な事実はスプーンの外にある
写真の登場も同じように、絵画の写実的な美しさに大混乱を引き起こした
これらの技術と美の傾向は現在もまだ続いている
毎年新しい技術の力が芸術家と消費者に「時代遅れ」の難しいテクニックをとるか、容易でより正確な新しいテクニックをとるかの選択を迫る
芸術家であり消費者でもあるわたしたちはしばしば、新しい手段や製造テクニックに飛びついて、それらの表現と美の可能性を試してみたくなる
それでも、同じくらいの頻度で、新しいものを拒むこともある
印刷ではなく手書き、店で買ったものではなく手作り、録音ではなくライブというように、わたしたちが「昔ながらの方法で」作られたものを好むときはいつも、機械的なプロセスで作られた本質的にまさっているものより、アーティストの技能や努力が高く評価されるものを選んでいる
芸術の基準もまた、特定の芸術の形を取り巻く外発的な要因がどれだけ知られているかに応じて進化する
ローマン・マーズは意匠を凝らしたみずからのポッドキャスト『99%インヴィジブル』で、詳細にわたってそのアイデアについて論じている たとえばある一話で、彼はコンクリートの使用がお特徴的な建築様式、ブルータリズムを取り上げている 1950年代と1960年代に人気のあったブルータリズムは現在、世界でもっとも酷評されている建物のいくつかを生んだものとしてよく知られている
一般の人々のあいだでは、ブルータリズムの建築物は本質的に冷たく、非人間的で、ひどく醜いとさえ考えられている
「オペラや絵画や文学など、ほかのいかなる芸術の形でもそうだが、人はそれについて知れば知るほどそれを好きになる」
はたして、建築家やその卵たちのなかにはブルータリズムのファンがたくさんいる
「コンクリートを使うためには高度な技能と洗練された技術が必要なことを彼らは知っている。詳細にいたるすべてを事前に計算し尽くしておかねばならない。ひとたびコンクリートが流されたら、調整するための後戻りはできないからだ」(Trufelman, 2015) 芸術が非実用的なわけ
芸術が「芸術」として成功するためには非実用的でなければならない
できのよい包丁の例
頑丈で硬くよく切れる
目的に完璧に合う道具は人に喜びを与え、美しくさえある
それでも、そこに機能とは関係のない装飾の要素がないかぎり「芸術」とはみなされない
適応度ディスプレイ理論はその理由を説明できる
芸術はそもそも自分の生存能力が有り余っていることを宣伝するため、また芸術を消費する立場から見れば、他者の生存能力に余裕があるかどうかを推し量るために進化してきた
非機能的なものに時間と労力を注ぐことで、芸術家は事実上「自分は生き残れる自信があるので、時間と労力を無駄にできる」と言っている
食料、銃、弾薬が保管された地下のバンカーは高価で、特に手作業の場合は建てるのが難しいかもしれない
それには作った人の技能と資源が反映されているかもしれない
けれどもそのバンカーには芸術と同じような意味での魅力はない
バンカーには生存を案じた動物の必死な様子が反映されているのであって、使いみちが決まっている資源以上のものを持っている動物の、心配とは無縁の自信ではない
ゆえに非実用性はすべての芸術の形に共通する特徴である
しかしながら、よく似た実用的なものごとと明確に区別する必要のある芸術の形では、特にはっきりとそれがわかる
必需品である衣服と贅沢品であるファッションの違いを考えてみよう
ファッションはしばしば目立って実用性がなく、機能性がなく、ときには着心地さえ悪くして、たんなる衣服との差別化を図っている
アリソン・ルーリー「ヨーロッパにおける服装の歴史は、床にまで垂れ下がる袖、(中略)大型の白いプードル並みの大きさ、色、肌触りの髪粉をつけたかつら、(中略)あまりにきつくて体を曲げたり普通に呼吸をしたりできないコルセットなど、何らかの価値のある行動をすることが実質的に不可能なスタイルであふれかえっていた」(Lurie, 1981) 今日においてさえ、わたしたちはスタイルという名のもとに自分で自分の足を引っ張っている
芸術の形としての食べ物もまた、ただの栄養と味覚以上のものとして目立たなくてはならない
眼識
適応度ディスプレイ理論はまた、芸術の「眼識」、すなわち目の利く消費者や評論家のスキルが、いかに重要な適応能力であるかを理解する助けにもなる
眼識はわたしたちが世間を渡り歩きながらよく自問する、「社会的地位が高いのはどれか?」という問いの答えにもなる
メスのニワシドリのように、人間は交配相手(とチームメイト)を選ぶ基準の一つとして芸術を利用している
けれども「よい」芸術と「悪い」芸術を見分ける能力がなければ、適応力も地位も低い芸術家を賛美してしまう危険がある
そこで、雌のニワシドリが自分の眼識を磨くために付近の東屋をすべて見聞きしなければならないのと同じように、人間もまた自分の判断基準を作り、地位の高いものごとを見極めるために、たくさんの芸術を消費する必要がある
さまざまな芸術を見て回って実際に試して初めて、どのスキルが一般的で、どれが珍しいのかがわかるようになる
眼識は高品質と低品質、一流の芸術家と二流の芸術家を識別するだけでなく、それ自体が適応度ディスプレイになる
わたしたちはかくして、信じられないほど膨大な余暇の時間を費やして、このきわめて重要な能力を磨いている
わたしたちがゆったりとくつろいで消極的に芸術を楽しむだけで満足することはまれだ
それどころか、身を乗り出して、自分が体験するものごとにおいて積極的な役割を果たそうとする
わたしたちは進んで芸術を評価し、それについて考え、批判し、自分の意見を他者と比べ、眼識を磨くべく未知の分野へと繰り出す
さらに、自ら達成するつもりがまったくない芸術の形に対してさえそれを行う
一人の小説家に対して、自分ではまったく小説を欠くつもりはないけれども熱心に関心を寄せる読者が100人いる
このように、芸術であれ何であれ、眼識はきわめて重要なスキルである
それにもかかわらず、ひとつにはあまりに無造作に行われているために、それがあたりまえのことだと思われているふしがある
まったく印象に残らない人から感銘を受けることがいかにまれであるかを考えればよくわかる
また受けてしまうと、まるでペテン師にだまされたかのように感じる
さらにはあまりにひどい審美眼を見せてしまったことを恥ずかしく感じることさえある
わたしたちは、よい芸術とひどい芸術、すぐれた芸術家とただの素人を見分けることが不得手だと、他者に知られたくないのだ
わたしたちが眼識のスキルそのものだけでなく、他者のスキルを評価するスキルについても、たがいに評価し合っているということを意味する